アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その89 大陸の西部進出とセミノール戦争

Last Updated on 2025年3月24日 by 成田滋

大陸西方への拡大が続くと、当然ながらアメリカ先住民はさらに犠牲を強いられることになります。若きアメリカの社会文化的環境は、アメリカ先住民を追放する新たな根拠となり、連邦政府の権限の拡大によって、それを実行するための行政機構を作り上げていきます。当時の好景気は、まだ先住民の手にある「処女地」を文明という軌道に乗せるという願望に拍車をかけるのです。

 1815年以降、先住民問題の管理は国務省から陸軍省、その後は1849年に創設された内務省へ移管されます。先住民はもはや独立した国家の民としてではなく、アメリカの被後見人とみなされ、必要に応じて政府の都合で移住させられるようになりました。1803年のルイジアナ準州、1819年のフロリダ州の獲得は、先住民に対するフランスやスペインからの最後の援助の可能性を閉ざし、さらに同化できない先住民へは「再定住」のための新しい地域であるインディアン居留地(Indian reservation)を提供します。

 ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシン州内で従属した先住民たちは、ヨーロッパ系のアメリカ人によって、まだ価値を知らなかった地域にある州内の居留地に次々と強制移住させられていきます。1832年にブラックホーク(Black Hawk)が率いるソーク・アンド・フォックスの反乱 (Sauk and Fox uprising)というブラックホーク戦争(Black Hawk War)が起こり、若き日のエイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)を含む地元の民兵によって鎮圧された以外は、ほとんど抵抗がなくなりました。

 南東部では状況が少し異なり、いわゆる五文明部族といわれるチカソー族(Chickasaw)、チェロキー族(Cherokee)、クリーク族 (Creek)、チョクトー族(Choctaw)、セミノール族(Seminole)が同化に向かって進んでいきました。これらの部族の多くは、土地所有者となり、奴隷にならなかった者もいました。チェロキー族は、優れた政治家セコイヤ(Sequoyah)の指導の下で、文字も判読でき、条約で割譲されたジョージア北部の土地で、アメリカ式の共同体を形成していきました。

 1832年、チェロキー族(Cherokees)は、戦ではなく裁判所に訴え、ウースター対ジョージア(Worcester v. Georgia)という訴訟で最高裁判所で勝訴します。この裁判で、州は、アメリカ先住民の土地に規制を加える権利はないとされますが、ジャクソン大統領は、ジョージアを支持して、この判決を軽んじ無視します。

 政府はミシシッピ川以南のインディアン準州、後のオクラホマ州への定住政策を強引に進め、1830年にこの政策が法制化されると、南東部の先住民たちは「涙の道(Trail of Tears)」に沿って西へと追いやられることになります。しかし、セミノール族は抵抗し、フロリダの湿地帯で7年にわたる第二次セミノール戦争(Second Seminole War)を戦い、結果として1842年に降伏します。この第二次セミノール戦争は、アメリカ独立戦争からベトナム戦争の間で合衆国が関わった戦争では最も長く続いた戦争でした。後に先住民たちはこれを「インディアンのベトナム戦争」(Vietnam War by Seminole) と呼んでいます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA